どうもみなさん、こんにちは。永遠の英語難民、井沢サンチェです。突然ではございますが、わたくし、これまで「英語砂漠」をさまよい歩くこと10年以上、今まで50以上のオアシス(教材)を発見し、その度に「救われる」と歓喜しながら駆け込んだものの、いまだに砂漠を抜け出せない状態が続いております。
実に情けない限りですが、ちょっとカッコつけたことを申しますと、全てが無駄だったわけではありません。なんなら、それなりに英語難民としての生活を楽しんでいました。また時には、喉の乾きを潤してくれるオアシスに出会えたことで、幸福な気持ちになったことだってあります。
しかしながら、オアシスだと思ったら蜃気楼だったことが何度かあったのも事実です。それはつまり、自分にまったく合わない教材、あるいは「それじゃ絶対に英語身につかんでしょ」と言いたくなるような教材です。
そんなときは、自分自身がさらに奥地に迷い込んでしまったようで、砂漠の砂を掴んで投げつけたい気持ちになりました。ただある日、私は気づいたのです。掴んだ砂の中に、鉄片のようなものが紛れ込んでいることに。
これは一体何なのか。よくわからないが、少なくとも役に立つようなものではなさそうだ。捨てよう。と思ったのですが、何事も捨てられない優柔不断な性格が本領を発揮し、ひとまず持っておくことにしました。
それから数年後。私の手元には大量の鉄片が集まっていました。自宅のショーケースに飾れそうなほどで、もはやひとかどの鉄片コレクター。よく見ると、どれも形はいびつながら、サイズはバラバラです。
ノミ市で客の誰もが奇異の目で眺めるガラクタのようだなと思いながら、じっくり鉄片を見ていたときのこと。 私は、思わずハッとしました。鉄片を組み立てたら1つの文章になるではありませんか。
つまり、鉄片はパズルのワンピース、いや破られたメッセージカードだったのです。では一体どんな文章が書かれていたのかというと……こうです。
砂漠の外へ運んでくれるものは汝自身の足のみ。
……まどろっこしい言い方になってしまいましたが、こういうことです。教材を読み英語系の動画を見たとしても、英語砂漠を抜け出すのは自分の足……つまり、自分の勉強やら実践しかないのだと。
1つの教材を読破したところで、たとえそれがどれだけ役立つものであったとしても、どこでもドアではないのだと。オアシスはオアシス。渇きを癒やすものですしかなく、歩くのは自分自身なのです。
そりゃあ水量豊富なオアシスであれば、渇きを癒しすだけだなく、水浴び、あるいはスパ的なくつろぎ方も可能かもしれません。そしてその時間は限りなく贅沢なものとなるでしょう。
でも、それがどれだけ気持ち良くても、自らの実践を伴わなければ、意味がないでのです。逆に言えば、オアシスにほとんど立ち寄らなくても、自分の脚がしっかりしてれば砂漠の外に出られるのです。
・大事なのは教材ではなく、しっかり歩き続けようという気持ち。
・どんなに役立つ教材でも、それをやったところで英語力が大きく変わるものではない。
・色々な教材に手を出したり、インプットだけじゃなくアウトプットをしたりしないと、大きな変化は望めない。
これこそ、私が50冊以上の英語の教材を購入して分かったことなのですが、ここで難しいのが、能動的に学習しようとして「いらんこと」をやってしまう可能性です。
その「いらんこと」が英語習得の妨げになることは十分に考えられます。かといって、言われたことをやっているだけでの消極的学習では大きな変化は望めません。
だから、消極的ではなく、かといって「いらんこと」をやるほど出しゃばってもないという絶妙な立ち位置にいないとダメなのですが……。そのあたりの加減というのは実に難しいものですね。それがわからないから、私は今もまだ砂漠にいるのだと思います。
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